kotonoha_pcg@気ままに雑記

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あきた

結局、なりたいものや自分の夢や何らかの目標がなければ何を言っても信用すらしてもらえないし、そもそも言ったとしてもただ「なんとなく合わないから」っていう理由で会社には入れない。そしてフリーターなりパートなり正社員以外の道を選ぼうとすれば周囲からはバッシングを受ける。

 正直あのころの社会背景とか踏まえて書いているわけではないけれど、今目の前にあるものだけを見て踊ってれば勝手に他者貢献出来て、おまけに良かれ悪かれ職にも就ける、嫌われる勇気、あれの唯一の欠点はそこであり、またこの部分はそうとしか解釈できない。

生きるための職をつけるという点は否定できない。でも、それは外堀に近い領域に属するものであって、中心に近い領域にある目の前のことをやればそれが人生そのものになる、という考え方は賛同できない。

もちろん、そんなもの考えたうえで生き方を選択するべきだろう、というのもあると思うし、捨てきれない。でも、正直言ってそこまで考えるのにはまた疲れたし、飽きた。

楽になりたいだけなのは確かなことだと思う。当然批判されても文句は言えない立場だけれども、批判する側は人の人生どうでもよくて口を挟みこんでるだけなので、単純に言えばただ攻撃したくてものをいう。そこに批判かどうかとか、お前の人生を考えて、とかそんな大義名分は存在しない。人を攻撃するための建前として、もしそれが何もなければそれこそ攻撃自体を非難なれることが分かっているからだ。

 ここでは批判されることは否定しないし、当然それを避けることはできない。そして多くの場合、攻撃する人間はこちらが能動的に意見しようとするのを嫌う。正確には、「自分の意に沿わない」なら意見を無視する。自分が最も意見を正しく言える。自分の意見のみが最も信頼できる。だから自分の意に沿わない、もっと極端な例を出せば気に食わないから意見を無視する。その人間には意見する価値がないと決めつけている。

教育者という表現がどの段階まで適用されるべきかといえば、おそらく義務教育それそのものまでだろうけど、広義でいえば人類全員が教育者になれる。人の考えはそれぞれの個人の中で完結するものだし、固有の思考を持って生きているはずなのだが、どういうわけかそれを無視して自分の中の思考を全体の総意として適用する残念な人間がいるのは認めざるを得ないと思う。

高圧的な態度で接する。人の意見を遮り、徹底的に否定する。人がものを言えず考えを巡らせている時でも行為自体を否定する。ものを言っても無理のある文句を付けて自分だけが正しく、あなたの考えは、行動は、さらに極端化するとあなたそのものがおかしいと否定する。

先に述べたが、批判は否定しない。否定されることは否定しないし、人間であるならば否定できないと思う。しかし、人がその単独で完結した世界を持つ中でその人格そのものを否定することは勇気がいることだと思うし、それを立場を利用して実行に移すのはなお勇気を要する行為だろう。